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境内案内

大都会の中心にありながら緑豊かな鎮守の杜に囲まれており、春の新緑や夏の蝉しぐれ、秋の紅葉など四季折々に様々な表情で皆様をお迎えします。

  • 御社殿ごしゃでん

    享保15年(1730年)に徳川八代将軍吉宗公の命より建立されました。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、社殿には質実かつ簡素な気風が表れています。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。数多くの戦災・震災を免れ、建立当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年)に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。

  • 四合稲荷しあわせいなり

    明治31年(1898年)に当社の近くに鎮座していた古呂故稲荷(ころこいなり)・地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社を合祀したことに由来します。その際、幕末の志士 勝海舟により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、四合稲荷(しあわせいなり)と名付けられました。その後、大正14年(1925年)に鈴降稲荷と縁起稲荷を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に明徳稲荷を合祀しています。

  • 西行稲荷さいぎょういなり

    文政8年~11年(1825年~1828年)に調査された『町方書上』によると、もともとは赤坂田町4丁目に鎮座していたようです。同5丁目に住んでいた西行五兵衛という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、「火伏の稲荷」として信仰されてきました。

  • 九神社くじんしゃ

    かつて境内の各所に鎮座していた天祖神社・春日神社・鹿島神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社(さいじんじゃ)の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に当社境内に遷座されました。

  • 桶新稲荷おけしんいなり

    稲荷社の主祭神である宇迦之御魂(うかのみたまのかみ)は稲の神であり、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、稲荷神の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請(神様の分霊を他の地へ移すこと)が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後当社に遷されたと伝えられます。

  • 山口稲荷やまぐちいなり

    終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。これらが奉納された経緯は今となってはわかりませんが、江戸時代を通じて篤い信仰を集めていたことがわかります。

  • 鳥居とりい

    境内には南側の参道と東側の参道にそれぞれ2基ずつ鳥居があります。このうち、一の鳥居(南側)には「大正十一壬戌年九月」「麻布 芝 氏子中」と記されており、麻布・芝周辺まで信仰が及んでいたことを物語っています。また一の鳥居には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の苗村又右衛門から奉納されたことがわかります。

  • 狛犬 こまいぬ

    境内には7対もの狛犬があり、赤坂氷川神社はまさに狛犬の宝庫と呼ぶことができます。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、当社が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。中門両脇の狛犬は、現在地に御社殿が建立されるより前の延宝3年(1675年)6月建立の銘があり、都内神社に現存する石造狛犬の中では最も古いものとされます。

  • 石灯籠いしどうろう

    灯籠とは文字のとおり灯(ひ)の籠(かご)であり、明かりを灯すことで邪気を祓い、神様のご加護を願うためのものです。置いて用いる台灯籠と、吊るして用いる釣燈籠があり、境内には石製の台灯籠が合わせて7対奉納されています。中門前に安置される灯籠は、遷座を担当していた老中 水野忠之が御社殿完成を記念して奉納したもので、港区登録有形文化財に指定されています。

  • 大銀杏おおいちょう

    当社の大銀杏は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。御社殿が遷座する以前よりこの地に生育していたと考えられ、江戸時代初期から歴史の変遷を見守ってきた当社のシンボルといえます。昭和20年(1945年)の東京大空襲により、幹の大部分を焼損することになりましたが、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、見るものに生命力の強さと神秘さを感じさせます。

  • 包丁塚ほうちょうづか

    包丁塚とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の包丁塚は、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合により建立されました。なお、「包丁塚」の文字は衆議院議員を務めた田中栄一の書を用いています。 現在、毎年10月上旬の土曜日に包丁塚祭を行っております。

  • 天水桶てんすいおけ

    天水桶とは、防火用に雨水をためておく大きな桶のことをいいます。当社には中門前と四合稲荷前の2対が奉納されています。中門前の天水桶は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師「太田六右衛門(通称:釜六)」が鋳造したものです。戦時中の金属供出を逃れ、都内に現存する「釜六」作品の1つとして大変貴重なものといえます。

  • 力石ちからいし

    江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として力石を用いた力試しが盛んに行われたといわれております。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれております。奉納者の記載や、力石にまつわる伝承はありませんが、港区内の力石のほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れていることが興味深い点です。

  • 山車展示場だしてんじじょう

    全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。山車はかつて「江戸の祭の華」といわれ、江戸から東京の著名な神社の多くの祭礼に曳き出されました。時代とともにその姿を消してゆくことになりましたが、この地域には奇跡的に山車の一部と、山車人形9体が遺されていました。江戸の華やかな祭文化を伝える山車を間近でご覧いただくことができます。